2020/10/15

あの人の言の葉 塚本 太郎

 海軍大尉 塚本 太郎

 昭和20年1月21日
 中部太平洋方面にて戦死
 茨城県龍ケ崎市出身 22歳


 父よ、母よ、弟よ、妹よ、そして永い間はぐくんでくれた町よ、学校よ、さようなら。
 本当にありがとう。
 こんな我がまま者を、よくもまあ本当にありがとう。

 僕はもっと、もっと、いつまでも皆と一緒に楽しく暮らしたいんだ。
 愉快に勉強し皆にうんとご恩返しをしなければならないんだ。

 春は春風が都の空におどり、みんなと川辺に遊んだっけ、夏は氏神様のお祭りだ。
 神楽ばやしがあふれている。
 昔はなつかしいよ。
 秋になれば、お月見だといってあの崖下に「すすき」を取りにいったね。
 あそこで、転んだのはだれだったかしら。
 雪が降り出すとみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。
 昔はなつかしいよなあ。
 こうやって皆と愉快にいつまでも暮らしたい。
 喧嘩したり争ったりしても心の中ではいつでも手を握り合って……

 然しぼくはこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ。
 日本人、日本人、自分の血の中には三千年の間、受け継がれてきた先祖の息吹が脈打ってるんだ。

 至尊の御命令である日本人の血が湧く。
 永遠に栄えあれ祖国日本。
 みなさんさようなら…… 元気で征きます。

 昭和十八年十二月十日

2020/10/08

あの人の言の葉 玉峯 長雄

 陸軍軍属 玉峯 長雄

 ジャワ島 ボコール第十六軍憲兵隊
 昭和23年6月22日
 ジャカルタにて法務死
 台湾 屏東県枋山郷楓港村出身

 
 本職は台湾人である。
 あるが故に一身を捧げ妻子を犠牲にして法廷に於いて最後の一線を守り、そして散るのである。
 日本のためを思って終始一貫の信念を守って戦ったのである。
 そして国家の所属が変わっても、本職は日本軍人として死んで行きたいのである。

 もし此の裁判は「正義のため」と言わずして「報復」と呼称せば本職は死刑に処されても何をか言わん。

 最後の御願いに将来大日本帝国が復興せば、どうか本職の一子董英明を政府に於いて日本教育を恵み給わん事を御願い申し上げます。

 昭和二十三年二月十九日

 於チビナン刑務所死囚房 玉峯長雄

2020/10/03

あの人の言の葉 山崎 保代

 陸軍中将 山崎 保代

 北海守備第二地区隊
 昭和18年5月29日
 アリューシャン列島 アッツ島にて戦死
 山梨県出身


 玉手箱帰る時まで保管されたし

 栄子へ遺す言葉

 一、部隊の長として遠く不毛に入り、骨を北海の戦野に埋め米英撃滅の礎石となる。
   真に本懐なり、況や、護国の神霊として悠久の大義に生く、快なる哉。

 一、思い遺すこと更になし、結婚以来ここに三十年良く孝貞の道を尽くし内助の功深く感謝す。
   子等には賢母、私には良妻、そして終始変わらざる愛人なりき。
   衷心より満足す。

 一、健康に留意し老後を養い、子供達は勿論、孫共の世話までせられたし。
                                
 保之 保久 和子 正子へ遺す言葉

 一、行く道は何にても宜し、立派な人になって下さい。

 一、兄弟姉妹互いに協力し、元気に愉快に活動しなさい。

 一、母に孝養を尽くすことが、父の霊に対する何よりの供養と存ぜられたし。 

2020/09/28

あの人の言の葉 須賀 芳宗

 海軍大尉 須賀 芳宗

 神風特別攻撃隊 第一正気隊
 昭和20年4月28日
 沖縄沖にて戦死
 東京都台東区出身 26歳


 昨日、今日と隊の桜も満開です。
 この桜ほど美しい桜を私は未だ見た事がありません。
 きっとこれも見る者の心のせいでしょう。

 皆さんの去った隊内にこの綺麗な桜に囲まれていささか感傷に溺れました。
 それは決して淋しい物悲しいホームシックではないことは断言できます。
 恵まれた両親にかこまれて温かい家庭に幸福に溢れて育った小生が学生時代から愛し続けて来た飛行機で勇躍征途にのぼる、実に恵まれた生涯であったと痛感したのです。

 豊かに真直ぐに育ったと云う事は今となって最大の強味です。
 実にその点両親に感謝しています。
 坊ちゃん育ちは弱味も多くありましょうが、根本に於いてどんな状態に置かれても必ず物を素直に受け入れて好意に解釈します。

 今、日本を守る最後の切り札として出陣するに当たって、日本人として御両親様の倅として誰よりも誇りと喜びとを以て出撃出来る事は私の最高の勝利であると微笑んでいます。

 桜が散ったら又お便りします。

2020/09/21

あの人の言の葉 植村 真久

 海軍大尉 植村 真久

 神風特別攻撃隊 大和隊
 昭和19年10月26日
 フィリピン沖にて戦死
 東京都出身 25歳

 愛児に宛てた手紙


 素子、素子は私の顔をよく見て笑いましたよ。
 私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。
 素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。

 私の写真帳もお前の為に家に残してあります。
 素子という名前は私がつけたのです。
 素直な、心の優しい、思いやりの深い人になるようにと思って、お父様が考えたのです。

 私は、お前が大きくなって、立派な花嫁さんになって、幸せになったのを見届けたいのですが、もしお前が私を見知らぬまま死んでしまっても決して悲しんではなりません。

 お前が大きくなって、父に会いたい時は九段へいらっしゃい。
 そして心に深く念じれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮かびますよ。

 父はお前が幸福ものと思います。
 生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちゃんを見ると真久さんに会っている様な気がするとよくおっしゃっていた。
 またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一の希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんもまた、御自分の全生涯をかけて唯々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。

 必ず私に万一のことがあっても親なし児などと思ってはなりません。
 父は常に素子の身辺を護って居ります。
 優しくて人に可愛がられる人になって下さい。

 お前が大きくなって私の事を考え始めた時に、この便りを読んで貰いなさい。

 昭和十九年○月吉日

 植村素子へ
 追伸、素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。
 だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。
 素子が知らずにいると困りますから教えてあげます。